広島カンツリー倶楽部も創立以来20年になりましたということを聞き、私は当時西条コースについて、忘れ得ない印象が二、三残っております。
そのひとつは三永村(当時の)村長が突然伊豆に来られて、いろいろゴルフ場の建設についてお話があり驚きました。
それから現地に参りまして設計にとりかかったのですが、どうしても土地の問題の折り合いがつかず、その年の暮の25日まで私は広島に釘付けされました。当時、私は住居地の農業協同組合の組合長をしておりましたし、私用もありこれ以上、広島に滞在することを許さなくなったので、いったん帰宅しようとして列車の切符を購入し広島駅のホームに出て列車を待っておりました。ところが今は故人となられた今西先生が息せききって来られ、三永の方がなかなか解決しそうになく、志和村(当時の)の方に適地があるらしいので、帰宅しないでその方を引きつづき見てほしいとのことで、まったく進退きわまりましたが、今西先生を説き伏せて今日はとにかく帰宅して28日には必ず広島に来るということにして帰してもらい、28日に約束通り広島に再度来て、年末ぎりぎりまで志和村を見て31日の午後、広島を出発してようやく伊豆の家に帰ることができました。
いまひとつはようやく三永村の土地が解決し私の宿に倶楽部の幹部の方々が集まり、契約書に調印することになりましたら、私は筆頭に押印させられました。こんな例は今まで一度もないし、今後もないことだと思います。
また、設計の際、幹部の中でそれもかなりご年輩の方々からのご注文で、バンカーはなるべく少なくしてほしいということでした。しかし出来上ってすこし経つと少な過ぎるので、もう少しふやした方がよかったという話で私はかなり当惑したものでした。
現在の八本松コースはまだ拝見してませんが、旧コースは戦前、私が東大の台湾演習林の調査に出かける途次、ある広島ご出身の方のお世話でただ一度だけ見せていただいたことがあります。その時はたしか広島電気という時代でしたが、当時、副社長をしておられた稲葉実さんは郷里の先輩で社長の宮島のご別邸にご案内を受けたことがあります。その時の印象として私の忘れ得ないことは、広島の鮎の豊富なことでまったく驚きました。その鮎も今は昔の面影はなくなったことでしょう。
八本松のコースは黒松の大木が忘れられませんが、これはどんなものでしょうか。命のあるうちにぜひ一度お伺いしたいものです。
(昭和50年12月発行 「20年のあゆみ」掲載)